帰国にあたって--お得意様文化@イタリア:"Ciao bella! 10euro a Lei!"2010/08/20

バールの記事でも触れたが、イタリアの商店では店主が「神様」である。店に入ったときや出るときに挨拶をするのは、客のほう。挨拶なしで入店すると「礼儀知らず」として店員の冷たい視線を浴びる。

市場の八百屋でも、店の人に自分の欲しいものを言って商品を選んでもらう。客が直接商品に触って選ぶのはもってのほか、服等でも直接手にとって見たいときには「これを見たいのですが…」と店員に断って許可を受けて手に取るか、店員に説明とともに出してもらう。一見さんには冷たいことが多く、買おうと思ってもお得意様の相手が優先で、店員がまるで相手にしてくれなかったり、生鮮食品では腐ったものを入れられたり、高い値段を吹っかけられたり、おつりをごまかされたりは当たり前。(もちろん中には、ごくまれに一見さんでもやさしくしてくれる人もいるが)


が、ちょくちょく同じ店に行っていると、ある日突然対応が変わる。
店に入ったとたん、店員のほうから "Ciao bella(bello)!(やぁ、美人さん/ハンサムさん)" と声をかけられる日が来る。これは、お得意様として認められた証拠である。例えば、複数の店員がいて、たまたま自分を覚えてくれている店員が他の客の相手をしているときなど、その店員がこの一声をかけてくれることで、その客を初めて見かけた店員も「この人はお得意様なんだ」とわかるという効果もある。

一旦お得意様の地位を得ると、いろいろな特典がある。
一番わかりやすいところでは、おまけ。”10euro a Lei!”と「『あなたには』10ユーロ!」という言い方をされるときには、まちがいなく表示されている値段より安い値段である。またすべての商品が店頭に出ているわけではない個人商店では、いつも買うものや好みをおぼえてくれているので、自分で商品を選ばなくても手ごろな品を奥から出してくれる。

例えば、最初から親切だった数少ない店である、いつも買っている青空市場の魚屋では、随分長いこと秤に表示された通りの金額を払ったことがない。周囲に他の客、しかもおそらくはお得意様が多くて、他の客にはわからないよう特別に割り引いてくれるときには、おつりをわざと多くくれて、ウィンクで合図をされることもある。また「今日はこれが新鮮、めったにこんなにいいのは入らないから、これを買いなさい」というときには、ある意味、当方に選択権はない。ともかく薦めてくれるものがその日一番いい品であり、これを買うしかない。前に買ったもので好みをおぼえてくれているから、間違いないので安心でもある。私になじみのない魚の場合には、調理方法も丁寧に教えてくれ、場合によっては「パセリを入れるといいから、これを持っていきなさい」と、隣の八百屋に声をかけてパセリをもらって、魚と一緒につけてくれることさえもある。
お世話になった魚屋

他の店と比較にならないほど新鮮な野菜を売っているやはり青空市場のの八百屋では、老主人は誠実な人柄だが、若者のほうは計算高い。いつも込んでいるため、最初はいい加減な品を入れられたり、つり銭をごまかされそうになったりした。一旦他の店に代えたが、やはり鮮度がまるで違う。今までの経験で、正面きって「これは傷んでいるから新鮮なのと替えて」「つりが足りない!」などときつくいうと、プライドの高いイタリア人に客の前で恥をかかせて、店員を憤慨させるだけとわかっている。
そこでちょっとひねって、傷んだ品を「これはもう少し大きいのと替えてくれない?」とさりげなくいうと、向こうが「やるね!」という表情になり、お互いいやな思いをせずに新鮮な品と交換できる。つり銭が足りないときは、受け取った手をそのまましばらく出したままにして「8.50ユーロだっけ」というと、「ああ、ごめんなさい」とあわてて足りない分を足してくれる。
その頃には、たまたま品切れの野菜を買おうとすると、隣の八百屋から調達してきてくれたり、「今日はメロンはどう?」と、おいしい品を薦めてくれるようになった。が、それと同時に「バナナも一緒に買わない?」とあまり売れていない品を抱き合わせられたりする。つきあいにとおもって2本頼むと4本持って「このくらいいい?」と、キロいくらの支払いなので、損得があるわけではないものの油断がならない。こんな毎回の駆け引きがすっかり面白くなってきた。

ジェラード屋では、いつも一番小さな量の金額の2ユーロで頼むが、行くたびに量が多くなり、いまや4ユーロ並みの量が盛られる。靴屋が、近くのバールに連れて行ってくれて、カフェ(エスプレッソ)をおごってくれたこともある。花屋では、看板犬とすっかり仲良くなり「花買わないでも、犬と遊ぶために来てくれてもいいのよ」と、笑顔で言われている。
花屋の看板犬

ミラノに来て、最初はなかなかお得意様を大切にする風習に慣れなかったが、何もわからなかった私に最初から親切にしてくれた人たちや徐々に受け入れてくれたお店の人たち。日本でも、アメリカでも、まず家族経営の店が少ないので店員の入れ替わりがあることもあろうが、このように単なるお客さんの立場で、店の人に深い情を持つことはよほど長く通った店で何件かあるくらい。

この国は良くも悪くも情が深く、人のつながりが密接である。気がつけば、私のほうでも「このおじいさんは奥さんを昨年なくしたばかりで、店を閉めるかどうか悩んでいる」「この人は、昨年生まれた孫に会うのを毎週末の楽しみにしている。70歳を期に閉店して孫とすごしたいと思っている」「ここの家族はバカンツァに、トスカーナに行く」「この一家の店に出ていないもう一人の息子は、銀行員をやっている」「この家の子供たちは、夏休みに英語キャンプに通っているが、両親は3ヶ国語を話せるようにしたいと思っている」などなど、まるで友達のように彼らの日常を知っている。

なのでこちらも、「これこれを買いたいからある店を探す」のではなく、「この店で何か買いたい」という買い物の仕方になっている。イタリアでは「セール」”Saldi”で店が空っぽになるほどの在庫一掃をする習慣があるが、普段も品揃えは頻繁に変わる。先週あったものが今週あるとは限らない。これも考えれば、もともと小さな商店が多かったため、品揃えを変え続けることで、毎日のように来るお得意様に、飽きずに買い物をしてもらえるように始まったのではないか。

帰国にあたって、改めていろいろなことを感じている。
行きつけのお店の人たちには、2年に満たない滞在期間であるのに、家族のように接してもらったり、困ったときには店舗という立場を超えて助けてもらったり、本当に毎日の生活を支えられてきた。長い店では1ヶ月以上に渡る長期閉店期間のバカンツァに7月からはいっているため、7月下旬から徐々にお世話になったお店での買い物の際には帰国の挨拶をしてきている。

住所やメールアドレスを交換してくれ、家族がかわるがわる現れて「『さよなら』じゃなくて、『連絡を取り合いましょう』と言ってね」と抱きしめてくれる、次々と入れ替わり立ち代りイタリアで親しい人同士がする「2回のキス」をしてくれる、バラの花をプレゼントしてくれる、行く店ごとにカフェ(エスプレッソ)をおごってくれて、1日5杯飲む羽目になる…。また、セール期間とはいえ、「いつも来てくれたことへの感謝の気持ちです」と、本来割引対象でない商品なのに店主に相談して3割引にしてくれた店もあるし、韓国人経営のアジア食材店の最後の買い物では「支払いはいらないから。これは餞別です」と代金を受け取ろうとしない。

最初は「お得意様文化」に対して、「一見さんを差別してこんな扱いをしたら、将来の顧客候補が逃げるだけで結局損なのに」「お得意様に特別扱いをしても、だからといってたくさん買うわけでもない品目なのに」と思うこともあったが、わかってくると、決して損得で「一見さん」「お得意様」を分けているわけではない。もう帰国する、将来の儲けに繋がらない私に対してのこんなサービスを見てもわかるように、顧客と築く一対一の人間関係を大切にしているのだ。

アジア食材店

最初は、イタリア社会に対し、人間関係の濃さ=排他的なところがあると感じた。が、これらのお店の方々、いつも気にかけていただき、また何かあればすぐに助けに来てくれた大家さん一家やご近所の方、またイタリア生活にストレスを感じたときや困ったときに「わかる、そうだよね」と受け止めてくれたイタリア語学校の友人たちや、対等な友人として話を聞いてくれた先生たち、何度か話すうちに親しくなった人たち…、懐に入り込んだ人には、家族のように接してくれるようになる。

やっと築き上げたこのような関係をおいて日本に帰ることに寂しさを感じていた。しかし、バカンツァで順繰りに不在になっていくため、一挙にではなく、徐々に一人づつ挨拶しながら「さようなら」ではなく、「また今度来たときね」「連絡取り合いましょう」と言い合っていることに気がついた。2年弱のイタリア滞在を終えて、今週末で帰国する。

城砦に住む@マルケ州:La famiglia nel muro@Monteprandone2010/08/17

大家一家は、アドリア海を望むマルケ州のMonteprandone  という、小さな町に住んでいるという。以前から「海が見えるうちだから、一度遊びにいらっしゃい」といわれていたが、なかなか都合が合わず、また奥様が大怪我をされたりで行けずにいた。が、帰国を控えた最後の週末、8月15日のFerragosto(聖母被昇天祭)というイタリアの家族が集まる祝日にお招きいただき、やっと訪問が実現した。

私たちが借りている家からほんの5分のところに住む大家の娘さんの車に同乗、片道五時間の旅である。道すがら「お城の城砦の一部、塔になった部分が家なので、3階建てで縦に細長いけれど驚かないでくださいね」といわれて、どんな家かあれこれ想像しているうちに到着した。

窓からの風景

小高い山の上から眼下に海を見下ろす町には、1500年代の城跡があり、それを取り囲む城壁を部分ごとに各家庭がきれいに修復して使用している。その一部が、大家一家の家であった。

ここは、もともとは大家の奥さんの祖母の持ち物であったとのこと。すっかり老朽化してしまい、役所から、放棄するか修復するかを迫られた。一族のなかでは、修復にかかる費用を考え、放棄するという意見が大勢だった。彼女だけがそれに反対して、役所から修復の許可を得て、プール付の豪邸1件分に相当する費用を負担する代わりに、ここに住むことになった。

大家のご主人は、現役時代は海外を転々とする生活をしており、子供3人はすべて異なる国で生まれている。「子供の頃からひとところに落ち着かない生活で、生まれた町にもなんの思い出もない子供たち。そして、それぞれが違う町で育っている孫たち。私自身はローマで育っているけれど、彼らに一族のふるさととなる家を作ってあげたかったの」とのこと。「『私がもっと年をとってここで暮らせなくなったらこの家は売る』といったとき、『そんなこといわないで!』と泣いて反対したのはまだ小さかった孫たちだったのよ」と、まとわりつく孫たちを笑顔で見ながらうれしそうに言う。確かに、この「お城」の家に驚いて「こんな家に泊まらせてもらえるなんて夢みたい」といった私に「夢なんかじゃないよ!」と胸を張って言ったのは、11歳の孫であった。

現在私たちが借りているミラノの家は、ミラノにまだ娘二人が住んでいて、その子供である孫たちが小さかったときに、子供たちの面倒を見るために滞在する冬の間だけ使っていた家だった。長い夏休みは、当時も今もマルケの家に孫たちを引き取っている。その後、娘の一人がアドリア海沿いに引越し、今もミラノに残っている娘の子である孫も中等学校に入り手がかからなくなったこと、そして自分が年齢を重ねたこともあり、私たちが借りているミラノの家を貸し出して、自分たちは現在気候の温暖なマルケで1年を過ごしているそうだ。

今まで、イタリアでは多くの城を見たが、実際に日常生活に使われている城は少ない。一族が集う、イタリア人にとって重要な祝日をご一緒させていただき、3世代の家族とともに夏の週末を過ごす中で、彼らの絆を感じることができた。「お城」に泊めてもらった夜、今、私たちが住んでいる家も彼らの一族の歴史をなす「お城」のひとつであることを考えた。

国境の町でのコンサート@トリエステ:il Concerto dell'Amicizia di Riccardo Muti@ Trieste2010/08/02

「バルト海のシュテッティンからアドリア海のトリエステまでヨーロッパ大陸を横切る『鉄のカーテン』が降ろされた。中部ヨーロッパ及び東ヨーロッパの歴史ある首都は、すべてその向こうにある。」
イギリスの第61代首相であったチャーチルが、1946年3月に米国ウェストミンスター大学で行った演説の中の、有名な一節である。
トリエステ 港の夕日

トリエステは、アマルフィやジェノバ同様、海に流れ込むような急な坂道の下に港が広がる港湾都市である。中心街から、途中でケーブルカーをつなぐハイブリッド方式のトラムで丘の上に上ると、この町が一望できる。
丘の上から見たトリエステ
この町は、イタリア北東部にてスロベニアと国境を接しているフリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州トリエステ自治県の県庁所在地でもある。ヴェネツィアによる実質的支配、オーストリアによる支配、イタリア併合、ドイツ軍やユーゴスラビアによる占領、オーストリア支配等を経て、冒頭のチャーチル発言の翌年には自由地域として国際連合管理下に置かれ、その後イタリア返還という歴史をたどっている。

現在のクロアチア、スロベニアとは、もともとラテン民族とスラブ人という違いがあるにもかかわらず、同じ地域として扱われることさえあった。その際には彼らは運命を分かち合いながらもその「違い」から絶えずすさまじい緊張の中での関係を強いられてきた。結局トリエステは「鉄のカーテンのこちら側」となったが、これらの政治的動きの中で翻弄され続け、他の2国とは歴史的に多くの争いや葛藤を経験している。


トリエステが「かつてオーストリアだった」といわれるように、クロアチア、スロベニアは「かつてイタリアだった」といわれ、公用語ではないものの地域によりイタリア語が通じることからイタリア人の旅行先としても人気がある。今年は特に、クロアチア観光局のキャンペーンもあり、知人のイタリア人の中でも2家族がバカンツァをクロアチアで過ごしている。「クロアチアに対しては、正直複雑な気持ちがある。が、それを払拭するためにもあえて行くことにした」と、そのうちの一人が言っていたのが印象深い。

2010年7月13日、イタリア・クロアチア・スロベニア三カ国の大統領会談がトリエステで開催され、それを記念して「友情のコンサート」が開催された。コーラスとオーケストラの編成だが、コーラスは3カ国の声楽家、オーケストラは3カ国の音楽院の学生たちによるものである。丁度トリエステに居合わせ、首脳陣が乗っている思われる、厳重な警備下にある黒塗りの車に出会ったりしながら、彼ら首脳陣も聴衆となるこのコンサートを聴くことが出来た。
友情のコンサート
町の中心であるイタリア統一広場にて、夕暮れ近くに9時の予定より30分近く遅れて始まったコンサートを待ちかねる人で広場は埋め尽くされ、身動きも取れないほどである。近くでは、知人がオーケストラのメンバーと思われるスラブ系の言語を話す数人が、スクリーンにある奏者が大写しになると小さな歓声を上げている。道路標示には他の町と同じ扱いで「スロベニアはこちら」との表示があるが、人の行き来をビザなしで行えるシェンゲン条約に加盟しているため、トリエステの中心街から10キロほどにある国境を超えて聴きに来たのであろう。この自由な往来が、今までのように上から決められての地域化ではなく、自主的な地域の協力体制を生み、「トリエステ経済圏」を構成することになるのでは?といわれてもいる。

翌日の昼食時に出会った、海外と繋がる仕事をしていたという老人は「昨日のコンサートを聴いたか?これはトリエステと2カ国にとって、大きな意味を持つんだ。私はずっとこの町に住んでいるが、今は国境の向こうの国となったあの地域と、われわれはずっと争ってきたのだからね」と語ってくれた。確かにコンサートでは、おそらく合同練習をする機会は限られていたであろうに、三カ国の音楽家たちがその喜びを伝えるような、一糸乱れぬ素晴らしいハーモニーを奏でていた。
ウンベルト・サバ書店
著名なイタリアの詩人、ウンベルト・サバやジェームスジョイスはこの町の出身であり、サバの経営していた書店は現在はその詩人の名を看板に掲げている。が、彼の時代にはイタリアとオーストリアの文化が融合するこの町を示すかのように「二つの世界の書店」という名前であった。

マフィアとシチリア:La Mafia e Sicilia2010/07/19

シチリア=マフィアというのはあまりに短絡的なようで、また歴史的、現実的なしがらみがあるシチリア人にとっては不本意なイメージであることを承知している。が、こちらに来るまでイタリアに縁のなかった私にとって、わずかなイタリアとの間接的結びつきが、大学時代に禁酒法とアメリカンマフィアについて卒論で取り上げたことであった。以前テレビでマフィアについての番組を見た際にも感じたが、かつてアメリカの視点で見ていたものを、改めてイタリアからの視点で見直す機会となった。

さて、記憶頼りで若干せりふは異なると思うが、どの話だったか『刑事コロンボ』の冒頭でこんなシーンがあった。すでに多くの警官が押し寄せている殺人現場に駆けつけたコロンボに、そのアパートに住むイタリア系の女性が訴える。「私の家に泥棒が入ったの!警察がこんなに来ているから捜査を頼んでいるのに、この人たちはそれどころじゃないって。イタリア移民なんかが泥棒にあったって、そんなのはどうでもいいとでもいわんばかりよ!あなたは同じイタリア系だから、助けてくれるでしょ?」コロンボは「わかりました。今いるのは殺人課の人間なんです。すぐに盗難の係をよこします。必ず捜査するとお約束します。」と答え、殺人事件の捜査に入る。

「コロンボ」は、ジェノバ出身といわれる大航海時代の立役者、「コロンブス」(日本では英語式の読み方のこちらで知られる)と同じ名前である。コロンボが優秀であるのに、その能力をごまかすかのようなさえない風体で、どこか警察組織と一歩距離をおいているのは、アメリカ社会において、WASP(白人、アングロサクソン、プロテスタント)でない、イタリア系の彼に官僚組織での出世の道が閉ざされていることを暗示しているのである。

アメリカンマフィアの母体は、白人社会の中で底辺にあった新移民であるイタリア人の、自衛組織として発達したものといわれる。アメリカにおける1920年代の禁酒法時代、ちょうどイタリアでは、ムッソリーニがファシスト政権を築きつつあった。独裁者である自分の言うことを聞かない、あるいは一地方に過ぎないシチリアで、誰よりも権力を持つべきムッソリーニ以上の力を持つシチリアマフィアに、彼は怒り狂い、徹底的に締め上げる。シチリアを追われたマフィアはアメリカに逃亡、それまで米国政府の大きな税源であった酒が、禁酒法によって豊富な資金源になる得ることに気付く。禁酒法の盲点は、購入した人に対する罰則はないことだ。そこで密造酒を組織的に製造・輸送・販売、つまり法に触れる部分を引き受けて、「民間人」に購入させる。このような方法で資金調達に利用したのみならず、その過程を通じてアメリカのマフィアを組織として完成されたものに育て上げたのである。このように成長したアメリカンマフィアが、のちにはムッソリーニにより衰退したシチリアマフィアを再興するという、逆輸入現象も起きている。

地中海の要所にあり、様々な「外国」権力に圧制を受けてきたシチリアでは、もともと支配者や政府に対する根強い不信感があった。横暴な支配者の搾取から身を守るため、互助組織が発達していく。また、シチリアの地主は、当初ナポリやせいぜい近くても大都市のパレルモに住んでいることが多い。地中海で一番大きい島であるシチリアの広大な土地の耕作と管理は、一部の管理人に任されていた。彼らが、さらに下の使用人たちに土地を守るという条件で上納金を納めさせても、地主ははるかかなたであり、自衛の思想が発達しているこの地ではごく自然の成り行きとしてこの方法が普及していく。このように「自衛」名目で組織化された集団が、マフィアである。そのためマフィアの出身地は、もともとはシチリア等の大都市ではなく、周囲に何もないような、広大な農地の真ん中の小さな村が多い。

コルレオーネ村への道

映画『ゴッドファーザー』で、家族を殺された子供が単身で、そして身一つでアメリカに渡り、出身地の名前が誤って苗字として登録され、後のドンの名となったことで有名なコルレオーネCorleone村 。この村は、実際に数多くの大物マフィアを送り出している。本当にこの道でいいのかと不安になるほど、いけどもいけども周囲には地平線まで農地以外何もない。そのうち山の上に町が見えてくる、それがコルレオーネ村であった。が、マフィアで有名になることは、この村にとって不本意であり、映画でそのことが世界的に知られてしまった後、一時は村の名前を変えようという動きさえもあったという。どうやらツアーもあるようだが、訪問した日は外国人は他におらず、村を歩くと、周囲の、車の運転手からさえも事故が起こらないか心配になるほどの視線を浴びた。この立地条件を直接見て、村の雰囲気を感じたことで十分だと、この村を後にする。
コルレオーネ村にて

その日宿泊した、パレルモ近くの海岸沿いにあるカステッランマーレ・デル・ゴルフォCastellammare del Golfo は、やはりアメリカンマフィアの出身地として有名である。禁酒法時代の1929年、ニューヨークで起きた組織間の紛争は出身者の多さからカステランマレーゼ戦争(The Castellammarese War)と呼ばれた。
カステッランマーレ・デル・ゴルフォ中心部への入り口

ミラノへ帰ろうと空港に向かっているとき、高速の入り口で警官に止められた。10分だけ待てとのことだが、理由はいわない。数分後に封鎖は解除され無事に空港に着く。翌日にシチリア出身の人に聞くと、以前、空港に向かう反マフィアの判事を数百キロの爆薬を使って爆殺した事件があり、市民が巻き込まれないよう、重要人物が高速を通過する際には、他の車が入らないようにしているという。パレルモの空港名、AEROPORTO DI PALERMO "FALCONE E BORSELLINO"は、マフィア撲滅に尽力したその判事の名前がつけられている。

暑さ対策@ミラノ:Che' Caldo!!@Milano2010/07/07

今年は熱波で、北イタリアでも毎日のように30度を越し、都市によっては40度近い気温が続いている。テレビでは警報を出し、子供とお年よりは13時から18時は外出しないようにと呼びかけている。

le tappallera

もともと30度を越すことがほとんどない地域であったので、昨今の温暖化で空調が徐々に普及してきたという程度。また、何世紀も前の建物を使っていることが珍しくないイタリアでは、建物に穴を開けられない、あるいは構造上設置が難しい、電気の配線や容量の問題で空調をつけられないケースもある。例えば今住んでいる建物は、防犯上窓を開けっぱなしに出来ない1階(こちらでいうPiano terra)と、病人等を抱えている等で許可を得た家以外は、建物に穴を開けるエアコンの設置が禁止されている。

こちらにきて、最初違和感があったのが、暑い日に、特に日が当たっている窓は雨戸を閉め切っている家が多いことだ。古い建物では木の、新しいものではシャッター状の雨戸:le tappalleraが、各窓に防犯もかねて設置されているが、それを閉めて涼をとっている。先日訪問した友人の家でも、緯度が高く9時過ぎまで明るいため日本と比べて遅い8時過ぎの夕食時にもまだ太陽がさんさんと照っている中、「今日は暑いから、tappalleraを閉めましょう」と早速閉めていた。

こちらの建物は石造りで断熱性が高く、また空気が乾燥しているため、窓を閉めて外気を入れず、雨戸を閉めて直射日光をさえぎることが一番涼しいとのこと。実際暑い外から、アパートメントの入り口のドアを開けてホールに入ると、閉鎖空間なのにひんやりと感じる。日本のように「風通しをよく」と、窓を開けると外の熱気が入ってきてしまい、かえって暑いのだ。最初は締め切った暗い部屋に入ると反射的に蒸し暑いように感じたが、慣れてくるとちゃんと涼しいことがわかる。ただ、今年はやや蒸し暑く、日本式のほうが涼しく感じることもあるから難しい。

 結局、閉塞感がいやなこともあり、窓を開けて扇風機でこの暑さをやり過ごしている。マルタで、昔は窓の近くに水が入った素焼きの壷をぶら下げて室内の温度を下げていたと説明があったのを思い出し、窓の近くの風の通り道に洗濯物を干してみると、かなり楽になる。

テラス席の「冷房」

レストランやカフェでは、外のテラス席のほうが室内より料金が高いこともあるほど、日照時間が短い冬に備えて太陽を浴びたがるお国柄。ここでも、外の席では霧状に水を噴射したものに扇風機を当て、気化熱を利用して少しでも涼しくしようとしている。冷房設備がない、地下鉄の駅もしかりである。

地下鉄駅の「冷房」

空調機の販売は、日本の企業が活躍しているため、日本と同じフレーズを使ったテレビコマーシャルをやっている。「この、涼しさや湿気のなさを表現した日本語の語感がイタリア人にも分かるのだろうか?」と思いながらも、懐かしく感じるとともに、ふとどの国にいるのかわからなくなる。

四大海洋共和国レガッタ@ジェノバ:Regata delle Antiche Repubbliche Marinare@Genova2010/06/30

イタリアの商船旗
通常、イタリアの国旗として知られているのは、三色旗(Tricolore italiano)である。が、海の上で
は、4つのシンボルをもとにデザインした徽章を中心に配した商船旗が、船舶を飾っている。左上からベネツィア:マルコ獅子、その下がアマルフィ:マルタ十字、右上がジェノバ:聖ジョルジョ十字、そ
してピサ:オクシタニア十字の各紋章である。さらに海軍旗では、ローマ帝国起源を示す王冠がその徽章の上に描かれ、マルコ獅子はマルコを称える書の代わりに剣を持っている。
海軍旗(沿岸警備隊オフィスにて)

かつて四大海洋共和国として、地中海における制海権を保持していたこれらの4つの「国」。それぞれが時代の流れの中で衰退し、また大航海時代の到来やナポレオンの台頭とともにその力を失った。が、歴史の中でひとつの時代を作り上げたその誇りは、今も海に生き続けているのである。

毎年6月、この「4カ国」によるレガッタレースが盛大に行われる。1956年から毎年4都市持ち回りで実施されているが、2010年は6月2日(共和国記念日)にジェノバにて行われた。

パレード:アマルフィ

レースに先立ち、午後から、昔の港を再開発した地域 Porto Anticoから、レースが行われる新港
Stazione Marittima に向かって、それぞれの「国」の旗を先頭に、各都市80名の中世の衣装に身を包んだ人々がパレードを行う。ドージェ(元首)や姫、楽隊や師団、行政官の行列が町を練り歩いていくのである。
パレード:ピサ

パレードを追いながら、人々はレースのゴール地点である新港に移動。夕方5時半、レースが始まり、埠頭を埋め尽くす人々に向けて2キロの距離を4艘のレガッタが疾走する。今年の順位はピサ(赤いワシ)・アマルフィー(青いペガサス)・ベネチア(緑のライオン)、主催「国」ジェノバ(白いグリフィン)の順となった。
レガータ



イタリア語試験 CILS:Certificazione di Italiano come Lingua Straniera2010/06/16

受験会場のCTP

6月10日、イタリア語試験であるCILS* を受験した。この試験は、欧州共通の言語レベル基準:QCER**に基づいて作成された、イタリア政府の認定を受けている語学試験のひとつである。外国人、またはイタリア国外に住むイタリア系2世3世などが対象であるが、受験に当たって特に学歴要件等はなく、希望者は身分証明書を提示することで受験登録できる。レベルは以下のように分かれている。

基礎レベル(Basic user):
初級はA1,A2の2レベル。イタリアに住む成人、イタリア国外に住む成人、8-11歳の児童、12-16歳の生徒の4種類の対象ごとに各レベルがさらに分かれる。

実用レベル(Independent user & Proficient user):
レベル1(B1)、レベル2(B2)、レベル3(C1)、レベル4(C2)の4段階に分かれている。レベル2あるいはそれ以上の級に合格するとイタリアの大学に入学する際に語学力試験が免除され、イタリア企業への就職でもこの級が採用の条件になることもある。またレベル4はイタリア人でも合格できない人がいるという。

A1,A2を取得しても「初級レベルのイタリア語力しかない」ということになるし、また授業で文法的にはB2レベルまで終わっている。急な渡航になにも準備をする時間がないまま、イタリアに着いたときには「こんにちは」はわかっても「今晩は」「さようなら」は知らないというレベルからのスタートだったものの、今回B1を受験した。試験は、リスニング(Ascolto)、読解(Comprensione della lettura)、文法(Analisi delle strutture di comunicazione)、作文(Produzione scritta)、スピーキング(Produzione orale)の5つの科目からなる。それぞれの科目が独立して合否が出て、1年間そのスコアが有効であるため、今回不合格になった科目があっても、それだけを1年以内に再受験することが出来る。

受験申し込みは、国立の成人学校(Centro Territoriale Permanente per l'Educazione degli Adulti :CTP)に指定された日時に直接出向いて登録したが、受験者の多くはその学校で習っている生徒のようだった。各地域ごとに地域住民に対する職業訓練や語学、文化講座等の授業をやっている学校で、受験会場になった学校は科学系進学校と校舎を共有している。

試験会場には、8:30に集合、B1は2科目のみの再受験者を含め20名強の受験者がいた。その場で受験番号が渡され、書類を書き、受験の注意などが告げられると、9時過ぎにリスニングがスタート。何人かは開始時間をよく知らずに9時頃に現れ、中には来てからあわてて「何時に始まってたの?」と聞いている人もいる。作文の前に休憩が入り、13:15に筆記試験が終了。解答用紙や試験問題の回収と確認が済むと一旦全員退出した。その後面接形式のスピーキングの試験をひとりづつ受けるが、私は1番目の受験だったため13:50には会場に戻らなければならず、持参した軽食を廊下でかじったのみでそのまま受験。集合時間から試験終了まで、若干の休憩以外ぶっ通しで6時間ちかい長丁場となった。

試験官は、みなが実力を出せるよう、丁寧に説明をし、また当然説明がイタリア語のため、よくわかっていない様子の生徒にもこまめに目を配っていた。この学校の生徒には普段からいろいろ説明をしているからか、私を含めたこの学校の生徒でない3名ほどの受験者には、特に注意を払ってくれる。一方、リスニングの最中にチャイムがなったが、ちょうど特に重要な部分でなかったためか、誰も特に気にしていないという光景も見られた。遅刻者にも適切に対応し、科目ごとに解答用紙を回収しては、記入方法に不手際がある人には、たとえば「マークシートをきちんと塗りなおしなさい」とその場で指導している。

成人学校の生徒は実際にイタリアで働いている移民が圧倒的に多く、あるいは職場で合格を要求されているのか、露骨なカンニングまがいの行為も見受けれらたが、そのような状況にも適切に対処していた。ちなみに、日本とは異なり、マークシートはボールペンで塗り、鉛筆で塗ったものは無効とされる。塗りなおしが基本的にできないため、一旦問題用紙に解答案を記入、作文については問題用紙に一旦下書きしたものを、最終的に解答用紙にペンで清書するようにとのことだった。限られた試験時間の中で二度手間になるが、後で聞くと、縁故による不正行為や、買収行為等がめずらしくないイタリアでは、関係者による解答の改ざんが行われる可能性があるとのこと。その防止策として、この試験に限らずペン書きが常識だそうだ。

最初は日本に帰ってから受験することも考えたが***、こちらで受験すること自体がいい経験になった。またこの試験会場は、以前このブログでも作品を紹介した須賀敦子氏が住んでいた家からほんの数十メートルの場所。自宅からは地下鉄とバスを乗り継いでいったが、その乗換駅はミラノに来た最初の頃住んでいたレジデンスの最寄駅であった。そろそろ帰国も近づいてきた今、イタリア生活のひとつの区切りとして、縁の深い場所で受験することができた。

*Certificazione di Italiano come Lingua Straniera dell’Universita per Stranieri di Siena
 シエナ外国人大学主催の外国語としてのイタリア語検定。
 略称は「チルス」と読む。
**Quadro Comune Europeo di Riferimento per le Lingue
 欧州評議会のヨーロッパ言語共通フレームワーク
*** 日本では、イタリア外務省の出先機関、イタリア文化会館が試験を運営している。

「誰がうちを掃除するの?」@ミラノ:Chi purisce casa?- I Stranieri e le Classe sociale2010/06/01

スポーツセンターでのイベント
昨年6月、イタリアで英語の表示を見ることは非常にまれであるにもかかわらず、近所の公立スポーツセンターに英語の看板が掲げられた。フィリピン人コミュニティーのスポーツイベントである。この日は、地下鉄の駅からセンターまでの道には、次々と到着する長いフィリピン人の行列が続いており、これほど多くのフィリピン人が近隣にいたことに驚くほどであった。

さて話変わって、自宅の前の道沿いにあるのは住宅と大きな公園の裏口のみで、バス通りから入った先は行き止まりである。つまりここを通るのは住人と関係者以外は、公園を散歩する親子連れや犬連れ、そしてジョギングをしている人くらい。また町の中心部は外国人の住人も多いが、定年退職組が住民の多くを占めるこの通りには比較的少ない。

ある日の出来事。この通りの入り口で荷物を持った上品な老婦人が石畳の段差に躓き、大きな音がするほどの勢いで、目の前で転んでしまった。買い物帰りの私は、おもわず駆け寄って、飛び散った荷物を集め、転んだショックで放心状態の彼女を助け起こした。怪我がないか、また持ち物はすべてそろっているか確認してもらう。彼女は丁寧にお礼を言うと、「どこからいらしているのかしら?あなたはこの通りに住んでいるの?それともこの通りで働いているの?」と続けて聞かれた。「日本人です。この通りに住んでいます」と答える。そしてこの手の質問に続く質問は大体決まっている。「では、ご自宅はどなたが掃除しているの?」。

このような聞き方をされる場合、相手が聞きたいことは、私の職業、あるいは家族の家事分担についてではない。間接的な質問で相手の生活レベルを知りたいのだ。おしゃべり好きのイタリア人には町でもよく話しかけられるが、たまたまトラムで隣り合った人に、あるいはレジ待ちの間に前に並んだ人に、たわいのない雑談のあと何度もこのような質問をされている。

階級社会の歴史があり、家事のために人を雇うことが文化として根付いているこの国では、日本でいえば中流家庭にあたる家でもお手伝いさんを雇っている家庭がよくある。このあたりはごく普通の生活レベルであろう住宅街であるが、老夫婦や老人の一人暮らし、共働きが多いためなおさらだ。すべての家事をお願いする人は近所では少ないが、たとえば週に何日か掃除だけ、あるいは水周りの掃除と洗い物だけ、洗濯と洗濯干しのみ、アイロンかけのみ(イタリアでは靴下から下着までアイロンをかけるそうだ)、夕食の準備と買い物だけ、と部分的に頼んでいる人は多い。近所の人がアルバイト代わりにやっていることもあるが(これは彼らにとって税金を取られない副収入となる)、多くは外国人の移民である。

この町には、北アフリカ、ルーマニア等からの移民も多くみられるが、お手伝いさんはフィリピン人が
圧倒的に多い。例えば、私が住むマンションでは、朝10時ごろには門の鍵を開けてもらうためのインターフォンに、フィリピン人の行列が出来るほどである。冒頭のイベントは、このようなフィリピン人たちのためのイベントであろう。

私が出会った老婦人が、住宅しかないこの通りで、買い物袋を持っている私に「この通りで働いているの?」と聞くのは、つまり、アジア人である私にまず「お手伝いとして働いているのか」を尋ねているのだ。そうではないとわかったので、お手伝いを雇っている生活レベルかどうかを、「掃除を誰がしているか」という質問で確認しているのである。ちなみにこの話を人にすると「いいお手伝いさんを見つけるのはみんな悩みの種。最初にお手伝いさんかどうかを確認しようとしたのは、もしそうだったら、自分に親切にしてくれたあなたにお願いしようとしたのでは?」ともいわれた。

また、ある豪雨の日、通り過ぎる車に雨水を跳ね上げられてびしょぬれになってしまった。すると一緒に信号待ちをしていたアジア系の女性がやさしい口調のフィリピン語で話しかけてきた。明らかに私より年長である彼女は、最近少々日焼けした私を同胞人と勘違いして、ちょっとした災難にあった私を慰めてくれようとしたらしい。「すみません、なんと言われたのかわかりません」と、とりあえずイタリア語で答えるとすぐにイタリア語に切り替え「あっ、ごめんなさい。あなたはなに人なの?」と尋ねられた。「日本人です」と答えると、「おうちの掃除は誰がやっているの?」とのおなじみの問いかけ。続けて言う。「私は韓国人に雇われて、掃除婦をやっているの。火曜と木曜の午後は時間があるから、もし必要ならやってあげるわよ」。

このコミュニティーでの外国人の地位と関係が、だんだんとわかってきた。

ミッレミリア@ブレーシャ:Mille Miglia@Brescia2010/05/10

ブレーシャ:大聖堂前の車の展示
ブレーシャ は、町の産業であった冶金技術の歴史を背景に、現在は金属加工、銃器製造の地として知られ、町を見下ろす城にある武器博物館には、かつての武器・防具の歴史が展示されている。またローマ時代の遺跡が残る町には、ミラノやベネツィアの支配にあったことを物語るそれぞれの紋章が入り乱れ、建物を飾っている。

毎年5月、この町を出発点と終着点としたクラッシックカーのレース、ミッレミリア が開催される。Mille Migliaとは、イタリア語で1000マイルの意。イタリアを縦断する形で各地の町を走りぬけ、ローマまでの往復1000マイルを走破するレースである。この期間は、町中の店舗がそれぞれに工夫を凝らしたミッレミリア仕様のディスプレイを披露、町をあげてミッレミリアを盛り上げる。

ブレーシャ:通りでの展示

もともとは1927年から1957年、イタリアを縦断して走る公道自動車レースとして行われていたが、1957年に子供を含めた観客を巻き込む大事故が発生、以降の開催が中止されていた。L'Automobile Club di Brescia は、レースの継続の道を求めて、 1958,1959,1961に臨時にレースを実施、現在のレースは、1977年からタイムトライアル方式で、1957年以前の当時参戦した実車とその同型車のみが参加できるクラッシックカーレースとして再開されたものである。


ブレーシャ:スタート地点へ


出発当日は、町のあちこちで出場車を展示。そのそばにはルートの確認や出発準備に余念がないドライバーもいる。夕刻が近づくにつれ、人々が見守る中をスタート地点に向かってそれらの車がゆっくりと移動していく。夜7時半、ミッレミリア通りと名を変えたヴェネツィア通りからエントリーナンバー順にスタート、“Freccia Rossa” (赤い矢)と呼ばれるミッレミリアのトレードマークに囲まれて、そうそうたるクラッシックカーが次々とブレーシャの町を走り抜けていく。しかし、なにぶん出場する車は数十年前に製造されたものであり、どんなに入念に手入れをしていても、まずは車を動かすのがレースの第一歩となる。展示場所からスタート地点までの移動の際にすでにエンジンがかからない車、スタート直後の急勾配を上りきれずに立ち往生する車…。観客が息を呑んで見守る中、必死にエンジンルームの中で格闘を続け、やっと再始動する車も多い。昨年は、スタート直後の車から炎が上がり、消防車が駆けつけるシーンも見られた。ローマから折り返してブレーシャに戻るまでの3日間、現在のコンピュータで完全制御されたものとは程遠い、人と一体となってはじめて走ることが可能な車でレースが繰り広げられる。

ブレーシャ:レースの光景

車の搬送の問題もあってかヨーロッパ勢が多くを占めるが、世界中からエントリーがある。日本からは、昨年2台、今年は4台が参加している。また、日本でも同じコンセプトで国際クラッシックカー協会の公認を受けた「La Fiesta Mille Miglia」 が、明治神宮から関東をめぐり、横浜・元町に到着するというルートで、また大阪でも姉妹イベントである「La Festa Primavera 」  が実施されている。

ヴェネツィア造船所の「灰と雪」:Arsenale & "Ashes and Snow" @ Venezia2010/05/06


ベネツィア:アーセナル
地中海を制覇していたかつての四大海洋国家のひとつ、ベネツィア。その造船所跡は、ピサやアマルフィの造船所跡が博物館となっているのに対し、現在も現役の海軍基地として使用されている。潟の上に浮かぶその「国」が、いかに海に生きることに適応していたか、またその特殊性を維持することにいかに情熱を注いだかを物語っているようだ。

ベネツィアはまた、映画祭で有名なビエンナーレの開催等、芸術の発信地としても知られる。2002年、この「造船所」で、カナダ出身のアーティスト、グレゴリー・コルベール(Gregory Colbert)の”Ashes and Snow” が開催された。

人間の持つ穏やかな野性と動物が持つ静謐な人間性の融合。この感性に訴えるインスタレーションは、合成技術を一切使用していない、和紙に焼きつけられた写真と映像、そして一人の「男」が旅路の間その妻に向けて毎日書いている書簡の形態を取った小説とによって構成されている。

が、その放浪は「男」だけにとどまらない。造船所という場の力を作品の一部として利用した"Ashes and Snow"は、その後この造船所にインスピレーションを得た、ノマディック美術館(The Nomadic Museum)という移動式建造物により、美術館ごと、今なお世界中を放浪し続けているのである。そしてその放浪の中で、インスタレーションは徐々に増殖し、変貌していく。

また建物自体も作品の一部として変化を遂げていく。2007年には東京・お台場にもその独特の姿を現した、2005年から使用されていた初代ノマディック美術館はコンテナを積み上げたものであった。2008年、その後も放浪を続け、変わり続ける美術館は、メキシコシティーへ。竹を使った史上最大の建造物として、メキシコ滞在時に私自身も多くの時間を過ごした、町の要であるソカロ広場にその姿を現した。

「始まりと終わりの間」。東京での展示の際に鑑賞し、”完成された”作品、そして”固定された”美術館では不可能な、「放浪性」が作品にもたらす力を感じた。これまでに、4大陸で開催された"Ashes and Snow"の来場者は現在までで1000万人を超え、存命するアーティスト単独の展覧会としては、史上最高の集客数を記録している。