衆議院選挙 ― 2009/09/02

イタリアのニュースでは、NHKの映像をそのまま使ったものが多いものの、日本における地震や台風による被害の様子などもかなり詳しく報道されている。もちろん他の地域、例えばアメリカの山火事、ミャンマーのスーチー女史の現状、アフリカ難民などについても、満遍なくカバーされている。

今回の選挙も投票前から今日に至るまで、随分ニュースで取り上げられている。ただ、街頭インタビューのシーンでは浴衣姿の女性たちを、投票の様子を伝える映像ではわざわざ僧侶が投票箱に入れている場面を選んでいるのが、少々ご愛嬌。

ニュースでは「日本の政治が大きな方向転換を迎えた」というような論調のようだが、イタリア人に「でも日本は政治が安定しているんだから、結局大して変わらないんでしょ。」と(おそらくは褒め言葉として)言われた。

ミラノの蚊 - Le Zanzare ― 2009/09/03

レモンの香りの蚊取り線香
ミラノは蚊が多い。日本の蚊と違い刺されると非常に大きく腫れあがるが、それはどうも”免疫”のせいもあるようで、イタリア人はあまり腫れていない。その代わり、本来東京あたりよりも寒いはずのミラノでも、温暖化の影響があるのか、もともとほとんどいなかったTiger zanzare(やぶ蚊)が最近発生しているそうで、これは日本人はさほど腫れないがイタリア人は腫れあがるため困っているそうだ。

日本のような電気式の蚊除けの他、イタリアでは、柑橘系のにおいが蚊除けになるということになっているので柑橘系のアロマキャンドル各種、少数だが蚊取り線香も売っている。

ミラノはもともと、治水事業も手がけていたレオナルド・ダ・ヴィンチが、ヴェネツィアのように運河を張り巡らせた都市計画を行った。しかし、人口が増えすぎたので、建築資材の運搬に使った後は運河の上をふたをする形で土地面積を確保した。この結果できた地下の水路が原因で蚊が多い、とのイタリア人の話。

では地下水路に何らかの処理をすれば、蚊の発生は抑えられるのではないかといいたいところだが、あまりに昔のことでどこに水路があるか記録がないとか。

塩野七生氏の「イタリアからの手紙」にも同様の話がある。ローマで蚊の発生を抑えるために下水道の清掃をしようという話が持ち上がった。、最後に大掃除したのがいつかを調べたら、初代皇帝アウグスティヌス帝のときだった。結局大掃除は実現せず、2000年も誰も掃除しなかったのなら、まあいいか、となったのでは?という。

日本でも「戦争で全財産を焼かれてしまいまして・・・」「それではあなたも戦後さそかしご苦労なさったでしょう」「いえいえ、戦争というのは応仁の乱の話です」というジョークがあるが、このような話をイタリア人から聞くと長い歴史を持つことへの誇りを感じる。

スペイン:ゲルニカ - Guernika ― 2009/09/08

マドリッド・国立ソフィア王妃芸術センター
幾多の遍歴を経て現在はマドリッド・国立ソフィア王妃芸術センターにあるピカソ作「ゲルニカ」。テロの対象にもなったこの作品はかつて防弾ガラスで保護されていたが、現在は近づきすぎないよう、床にあるマークで注意が促されているだけである。

スペイン語圏4カ国目にして初めてスペインを訪問、個人的にはメキシコや南米での記憶が先にたつ。メキシコでは壁画運動の巨匠ディエゴ・リベラ等の壁画をいたるところで見ることができる。この運動では、所蔵者など限られた人々だけでなく多数の目に触れるよう、また非識字者にもそこに描かれた歴史やメッセージが伝わるように壁画という形態が選ばれた。その性質上政治色が入るケースも多く、それゆえの困難も存在した。余談だが、現在もメキシコの地下鉄の各駅では、字が読めなくても利用できるようにと駅ごとに駅名代わりととなるシンボルマークが決まっている。

一方、「ゲルニカ」は、1937年パリ万博のスペイン館を飾る壁画の製作を、ピカソに依頼したのが発端。スペイン内戦下にある共和党政府にとって、このスペイン館には政治的に重要な役割が期待されていた。依頼後も手付かずのまま日が過ぎる中、ドイツ軍によるゲルニカ爆撃の報を受けて、ピカソはこの大作を1ヶ月強の短期間で作成。しかし7週間遅れで開館したスペイン館に対する反応は、当初は批判あるいは無視だったという。

閉幕後に政治性を認められた「ゲルニカ」は各地を転々とし、1939年フランコ軍がマドリッドを占領した年にアメリカに持ち出される。その後、民主主義国家として認められるまでスペインにこの壁画が戻ることはなかった。フランコ、そしてピカソの没後のこととなる。

同じ美術館には、ロバート・キャパのスペイン内乱の写真も展示されている。1937年。F.L.アレンが禁酒法時代について書いた本のタイトルではあるが、“Only Yesterday”という言葉が頭をよぎる。が、地下鉄や鉄道駅の厳戒態勢、街中を巡回する多くの警察官の姿は、これらが過去の話ではないことを伝えている。

また、プラド美術館では所蔵分の多くがスペインの作品で占められる。それぞれの作品をいかに海外からこの地に取り戻して来たかが、その解説で強調されているのが印象深い。

作品とこの国の歴史とが一体となって観る者に訴えかけてくる。


Museo Nacional Centro de Arte Reina Sofía
http://www.museoreinasofia.es

スペイン:ホセ ラミレス - JOSE RAMIREZ ― 2009/09/09

店舗奥のMuseo
ギター界を代々支えている老舗。小さな店舗の奥には、ギターの歴史を語る多くの名器が保存されている。

楽器としての歴史が浅く、また音量や音質に限界のあったギターはクラッシック界ではなかなか認められにくかった。ホセ・ラミレス3世氏は、新しい奏法を開発してその地位を上げた現代クラッシックギターの父、アンドレス・セゴビアが愛用したギターの製作者。素材や塗装、乾燥方法等に関して、革新的な工夫を続けた人である。

また映画「禁じられた遊び」の音楽をギター一本で支えたナルシソ・イエペス氏と協力し、十弦ギターも作成している。これは倍音の不足により豊かさが欠ける音がある通常の六弦ギターに、低音弦を4本加えたものである。ラミレスは当初本体内部に共鳴用の弦をつけたものを考案した。それに関心を持ったイエペスから「他の弦と同じように外部につけることでコントロールできるようになる」との提案を受け、十弦ギターが完成した。「イエペス以外には弾けない」といわれたが、その後スタイルを変えたものも出ており、各地に愛好者がいる。

ずっと以前ギターを手にしていたときにイエペス氏の来日コンサートの手伝いをし、関係者の計らいで終了後の楽屋にて挨拶をさせていただいたことがある。小柄な方だが、客席からステージ上にいる姿を見た際の印象より大きく見え、大変丁寧にしていただいた握手の感触を記憶している。1997年他界。これだけの思い出も忘れがたい。

JOSE RAMIREZ
http://www.guitarrasramirez.com

モンツァ サーキット(1) – Autodromo Nazionale Monza ― 2009/09/15

Monzaサーキット: グランドスタンド
2009年フォーミュラー1世界選手権のヨーロッパ最終戦が10月11-13日にミラノ市近郊モンツァサーキットで開催された。今回10数年ぶりにレースをサーキットにて観戦したが、これが初めての海外観戦・F1観戦となった。

サーキット:
今までのサーキットでのレース観戦は87年に20年ぶりに日本で開催されたロードレース世界選手権(WGP、現:モトGP)での鈴鹿サーキット、1992年に終了した全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権(JSPC) をしばしば見に行った改修前の冨士スピードウェイのみ。鈴鹿は世界でも珍しい立体交差を持つテクニカルサーキットであり、富士は(2005年に大幅に改修)高速サーキットに分類される。

一方、モンツァサーキットは1周中のフルスロットル率が70%を超える、現在のF1開催地では唯一の超高速サーキット。F1史上最高速度である369.9kph、最高平均ラップ速度262.4kphの記録を持つ。また、ミラノオートモービルクラブ25周年を記念して1922年にたった100日間で建設された、現在使用されているヨーロッパのサーキットの中でも最古のもののひとつでもある。イタリアGP開催のために建設されたが、同時に1980年にイモラで開催された1回を除いて、1950年のF1開催以来継続してF1開催地となっている。モンツァ公園内にあるが、この公園はモンツァ市域のほとんどを占める広大な敷地を持ち、ヨーロッパにおいてフェンスで囲われた公園で最大のものである。

* Autodromo Nazionale Monza:
 http://www.monzanet.it/

モンツァ サーキット (2) – 2009年Formula 1世界選手権イタリアGP ― 2009/09/16

モンツァ:レース終了後のコース上の風景。右手がピット。
今年の標記GPの結果は、ホンダのF1撤退に伴ってチームを買い取ったブラウンGPのルーベンス・バリチェロ、ジェンソン・バトンのワンツーフィニッシュとなる。予選でポールポジションを取ったマクラーレン・メルセデスのルイス・ハミルトンは、3位につけていたが最終周にてクラッシュ、フェラーリのキミ・ライコネンが3位となった。日本人で唯一走った中嶋一貴は、不運なブロックにあった結果の予選17位から順位を上げたが、10位で残念ながらポイント獲得ならず。

地元フェラーリを表彰台へつなげることになったルイスのクラッシュ時には、観客席がこのレース一番の盛り上がりを見せる。"アウェイ"である海外を転戦することの厳しさを感じた。

レースはプラクティス第1,2回が9月11日、プラクティス3回目と予選が12日、決勝は13日の3日間で実施された。また、同日程でF1への登竜門ともいえるGP2も開催され、今後F1に進出・活躍するであろうドライバーたちが激戦を繰り広げる。第1レースでは突然の豪雨に開始時間が延長され、路面コンディションの急激な変化に、フォーメーションラップからクラッシュが続出する展開となる。

またプラクティス前日の10日には、ピットレーンウォークが開催された。翌日の予選を前に、ピット内できびきびと働くスタッフやピット作業の練習をしている光景を間近に見ることができ、さらに後半ではドライバーのサインをもらえる機会が設けられている。

地元フェラーリや好成績のブラウンGPのピットは大勢の観客で近寄れぬほどだが、その他のチームではゆっくりとピットを見ることができた。今回のレースであまり人気のないチームのピットではスタッフも観客一人ひとりと丁寧に接する余裕があり、直接話したり、写真を撮ったりと、ドライバーとの距離感が一挙に近くなる。大人から子供まで、きらきら光るまなざしでドライバーやスタッフと話す観客の眼を見ていると、ピットウォークで翌日以降に応援するドライバーが変わることもあるのではないかと感じる。

また決勝終了後にはコースが観客に解放され、たった今まで世界最速をかけたレースを展開していたコースを歩くことができる。あるものはしゃがみこんで路面のスリップマークに触れ、飛び散ったコンパウンドを拾い、あの熱狂する大観衆の中を黙々と周回を重ねたドライバーの心に思いを馳せ、あるものはスターティンググリットから走り出し、チェッカーフラッグのスタンドを真下から眺め、レースの余韻を楽しんでいる。

レース観戦もこれらのイベントも、乳母車に乗った赤ちゃん連れの夫婦や祖父に連れられた小さな子供たちも含めて幅広い層が積極的に参加している。各国から観客が押し寄せている客席では、イタリア語のほか、英語、ドイツ語、スペイン語などが飛び交う。ヨーロッパのモータースポーツ文化の懐の深さと奥行き、間口の広さは、このような歴史を重ねる中で培われてきたのだろう。

* The Official Formula 1 Website
 http://www.formula1.com/

イタリアの「時間」 ― 2009/09/18

ミラノ中央駅
*写真は、以前の各列ごとに回転式で表示されていた頃(2008年末)のミラノ中央駅の案内板。現在は電光掲示板に変わっている。

欧米の駅では大抵入線ホームが決まっておらず、まず駅の案内板で電車番号と行先、列車の種類、予定時刻など案内され、入線直前になると入線ホームが表示される。イタリアでは、これらの情報に加えて”Ritardoという項目がある。「遅延予定分数」を表示するための欄である。5分、20分といった遅延分数がここに記載されていく。が、「予定」なのでこの分数どおり遅れるとも限らない。そしてイタリア名物の”Sciopero”、つまり実に頻繁にあるストライキの時には、この欄が”CAN”(運休)と3桁が当たり前の遅延分数の表示でいっぱいになる。

北イタリアでは他国と国境を接しているためか比較的遅延は少ないが、イタリアの電車の遅延とストの多さは有名である。それでも民営化に伴い遅延はだいぶ減ったという。空港への直行便はストの際でも運行保障がされていたりと、信頼を得ようとしている。

「東京では2分遅れればお詫びの車内アナウンスが入り、5分遅れれば鉄道会社の正式の遅延証明書が希望者全員に発行される」と話すと、「イタリアでそんなアナウンスがあったら、冗談だと思って車内全員大爆笑だろうね」とのこと。

ヨーロッパの中では車社会の要素がより強いイタリア。公共交通機関に対する忍耐、そしてさらに「待つ」ことが、文化として根付いている。

先日30分に1本走っている市内循環バスに乗った際に、途中でバスのエンジンが止まってしまった。しばらく動かないまま運転手はいろいろ試し、携帯でオフィスに連絡を取っている。その前からエンジンの様子がおかしかったので、「これはもしや?」と思っていると、やはり”Mi dispiace…”(残念ですが…)との運転手の一言。

その日は青空市場の日で、買い物でいっぱいの大きな荷物を両手に持った年配の女性もたくさん乗っていたが、この2単語で全員何も言わずに当たり前のように降りて歩き出した。振り替えを求める人も、バス代を返せという人もいない。私も、乗った場所よりも自宅まで遠いところで下ろされた形になったために30分はかかる道のりを歩き始めた。

また、以前ベルギーからミラノへ移動したときのこと。3時発の飛行機がキャンセルになり、7時のドイツ経由便に振り替えられた。ところが7時を過ぎても搭乗が始まらない。やはりこれもキャンセルになったという。ドイツで降りる人はすぐに他の飛行機に振り替えが決まったが、乗換え組はもう少し待てとのこと。

誰も騒ぎ始めないため「ミラノ行きに乗り換えるのは、私たちだけか?」と思ったところ、実は他にも30名ほどいた。特に何の説明もないまま、2時間後の直行便に振り替えが決まり、結局当初の予定から6時間出発が遅れることになった。イタリア人たちはそのことに特に何の特別な反応もなく、これまた当たり前のようにさっさと指定のカウンターに移動し、手続きを始めた。

商店での買い物の際も、レジの列を止めて延々とあれこれ注文をつけるセニョーラの姿はどこの店でも見かけるし、レジ係が馴染みの客と話しこんで先に進まないこともしばしば。待っている客はそれにいらだつこともなく、その間に他の客とおしゃべりをし、ついでにさまざまな情報交換をする。明らかに外国人とわかる私も例外なく、マシンガンのようにつぎつぎと言葉が繰り出されるこのおしゃべりに引っ張り込まれる。

電車を待つ間、レジを待つ間…待っている時間を楽しむ術を覚えた。

Il Ministero dei trasportiスト情報:
http://www.trasporti.gov.it/page/NuovoSito/site.php?p=scioperi

バール - Bar ― 2009/09/22

イタリアの街中では周囲を見回せば必ず「バール」がある。先日行ったマッターホルン(イタリアではチェルビーノ)では、標高3317メートルの場所にまでちゃんとあった。しかもロープウェイを降りたとたんに探す人が多いのであろう、「500メートル先にバールあります。営業中」との看板が目立つところに立っている。パッと見回してもバールが見当たらないような場所でよくこの手の看板を見かける。それほどバールがないことに耐えられない、ということであろう。

英語のBarが語源だが、イタリアの「バール」は「バー」とはかなり異なる役割を持つ。強いて言うなら喫茶店とファーストフード屋とコンビニと立ち飲み酒場をあわせたような、イタリアの日常生活に欠かせない存在である。

イタリアでコーヒー = "Caffè" といえば自動的にエスプレッソを指し、それを道すがらバールで立ち飲み、まさに「一杯引っ掛ける」というのみ方をするのが一般的。日本のように喫茶店でゆっくりするのとは、かなり趣が異なる。

昼時には近所で働く人たちが、作りおきのパニーニやパスタを温めたものをワインと一緒に食べ、食後に一杯エスプレッソを飲んでさっと職場に戻る。カウンターにはチョコやミントなどのちょっとした菓子類、タバッキ(タバコ屋)が併設されている店ではタバコはもちろん、電車やバスのチケット、宝くじも売っている。地方に行くとバールがよろずやと化していて、ちょっとしたコンビニ並の品揃えである。

もちろんここで昼間飲むのはエスプレッソだけ、というわけではなく、エスプレッソを基にした各種のアレンジコーヒーがある。これらは大抵メニューがあるわけでなく、店によってあるなしも変わり、季節によるものもある。最初は周りが注文するのを見ながら徐々に覚えていった。

それらをさらに自分の好みにあわせて「あつめ」「ぬるめ」、ミルクがいるかどうか、入れるミルクの温度、ふりかけるのはカカオの粉かシナモンの粉か、お酒をたらすなら何か、混ぜて渡すか、別の入れ物に入れて渡すかなど細かい注文もする人もいる。

ちなみに、カプチーノは空腹を満たすためのものらしく、イタリア人は朝ごはん代わりにブリオッシュ(クロワッサン)と一緒に注文する。午後、ましてや夕食後には決して飲まない。

もちろんコーヒー以外にもミネラルウォーター、ジュース類などもおいてある。紅茶はまだ最近飲む習慣ができたばかりで、ハーブティーなど同様ティーバッグで出てくるし、「うちは置いていない」と言われたこともある。

夜のバールはやっと英語の「バー」の機能が登場、アルコール類が主体となる。ミラノでは夕方になるとハッピーアワーといわれる時間帯があり、飲み物を注文すればカウンターに並んだ食べ物が食べ放題。これで日本と比べて遅めの夕食までおなかを持たせるそうだが、メニューが充実しているところなら、イタリア人と比べて夕食の量が少ない日本人はこれで十分お腹一杯になる。

さて、バールマン、バリスタにとって、なじみ客の好むオーダーをおぼえているのは当然のこと。出勤時など多くの客でごったがえす店内で、すばやくなじみ客の顔を見つけ「いつものマッキアートかい?」と声をかけ、返事を聞く前にエスプレッソマシンをセットし始める。

私の場合、朝はカプチーノ、昼はスプレムータ、午後はマッキアートと、時間帯によってオーダーが変わるが、それもちゃんと覚えてくれて、私の顔を見ると時計をとっさに見ながらオーダーを判断している。日によっては違うオーダーをしたいこともあるが、居並ぶ客の前で違うオーダーをするのは彼の顔をつぶすような気がして、そんなときはわざわざ他のバールに行くこともある。

また「お客様は神様」ではなく、店主がその名の通り"主人"で「店が客を選ぶ」イタリア。地元のビジネスマンやおしゃれなセニョリータでにぎわうちょっと雰囲気のいいバールにラフな格好で行ったときには、最初は「外国人の一見さん」としてかなり冷たい扱いを受けた。

それでもそこは豆も売っているので、豆を買いがてらたびたび通っているうちに、ある日突然「やあ、いらっしゃい!」と店員全員の笑顔とともに挨拶された。さらに注文したマッキアートには、何度か他の客に出しているのを見た小さなチョコレートがついてきた。さらにはコーヒー豆のスタンプカードまで作ってくれる。やっとここでも馴染み客のステイタスを得たらしい。

コーヒー – Caffè ― 2009/09/23

イタリア各地のコーヒーメーカー。
アラビア半島起源の飲み物で、アラビア語のカファが語源の”Caffè”。今やイタリアの象徴となっている。

「バール」の項目で書いたように、イタリアではCaffè(コーヒー)といえばエスプレッソを指す。写真左は一番普及しているタイプの家庭用エスプレッソメーカー、通称”moka”。日本でも見かけるが、イタリアではどの家庭にも各種サイズが取り揃えてあり、取っ手やフィルターなどの部品を交換しながら何年でも使っている。

が、国家として統一されてからまだ150年にしかならないイタリア。それぞれの地域独特のコーヒーの飲み方もある。日本人にとってエスプレッソは非常に濃く感じるが、シチリアでは”リストレット”と呼ばれるさらに濃いコーヒーがある。ただし、エスプレッソにしても蒸気で一挙に抽出するという独特の方法と、お猪口一杯程度の量とで、摂取するカフェインは日本で通常飲まれるドリップコーヒー1杯よりも少ない。

写真右はナポリ式コーヒーメーカー。これは容器を逆さにして下に水、上にコーヒー豆をいれ、火にかけて沸騰させることで豆を蒸らす。十分蒸らせたらひっくり返して抽出する。

写真中央は、フランスとの国境に近いイタリア北西部アオスタ州特有のもので”Còppa dell’amici”、「友情の杯」と呼ばれる。”Caffè dell’amicizi”という飲み物は、この器にコーヒーとブドウの蒸留酒「グラッパ」やニガヨモギ酒の「ジェネピ」などの酒、シナモン、レモンやオレンジの皮などを入れて湯煎、または最近ではエスプレッソマシンの蒸気で温めたもの。容器のふちにグラッパで湿らせた砂糖をまぶして火をつけ、砂糖がカラメル状になったら飲み口から飲み、次の人へと渡していく。次の人は隣の飲み口からこれを飲む。つまり飲み口の数が友人の数である。

一方アラビア半島で飲まれるコーヒー、つまりコーヒーの飲み方の原型というべきものは、生豆に近い豆を挽いたものを煮出し、カルダモンなどの香辛料で香りをつけたもの。うすい黄褐色で、煎じ薬のような味がする。真鍮のポットからお猪口のようなカップに注がれるこの飲み物は、砂漠を渡ってきた客人へのもてなしであった。現在も客に出されるが、飲み干すとどんどんおかわりがつがれるので、いらなくなったらカップを振って合図する。

ちなみに、日本で庶民が始めてコーヒーを飲んだのは、1800年代初めの日本最北端の地、宗谷。ここに北方警備のために派遣された津軽藩士の多くが、厳しい寒さのなか水腫病で命を失った。幕府は当時病気に対して効果があるといわれていたコーヒーを支給、薬として治療に使用されたが、高価なコーヒーは全員には行きわたらずに亡くなってしまった藩士が多くいた。それゆえ彼らを偲んで宗谷公園に建立された「津軽藩兵詰合の記念碑」はコーヒー豆の形をしている。

稚内・宗谷近辺では当時のコーヒーを再現したという「煎豆湯」が売られていた。またオマーンのホテルに泊まった際には、ロビーではドリップコーヒーや紅茶等は有料で喫茶スペースに注文するが、それとは別にアラビア式コーヒーを無料でふるまうスペースが設けてあった。先述の”Caffe dell’amicizi”も、観光客用の山のバールのメニューにしっかり記載されている。「伝統」や「歴史」は、このような場所に生き残る場所を見つけていくのかもしれない。

サクロ クオレ カトリック大学 - Università Cattolica del Sacro Cuore ― 2009/09/29

サクロクオレカトリック大学:「新入生エリア」の表示がある中庭

1919年、5人の神父たちによってイタリア文化を発展・充実させるための教育機関が構想された。その2年後の1921年に2専攻68人の学生で創設されたのが、サクロ クオレ カトリック大学である。現在は40000人の学生が14の専攻で学ぶ、ヨーロッパで最も大きな私立大学であり、また世界で最も大きなカトリック大学でもある。

ミラノキャンパスは、1930年に設立時のサンアグネーゼ通りから、現在の旧サンタンブロージョ修道院に移転された。ミラノ司教・聖アンブロージョにより386年に建てられたミラノ最古の教会、サンタンブロージョ教会に隣接する。ブレッシャ、ピアチェンツァとクレモナ、ローマにもキャンパスがあり、さらに2002年にはカンポバッソに新キャンパスが設置された。

9月23日、ちょうど新入生向けのプログラムが実施されているところに出くわした。子供や孫が入学したのであろう、誇らしげな顔で学内をじっくりと見て歩く保護者たち。初々しさのあらわな表情で、これからともに学生生活を送ることになる友人を見つけようと誰かれなく声をかけ、おしゃべりに夢中な学生たち。在学生たちは彼らに暖かいまなざしを向け、あれこれと案内し、熱心にサポートする。

サクロ クオレ カトリック大学
http://www.unicatt.it/